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永禄10年(1567年)、戦国時代の智将とうたわれた、毛利元就の三男小早川隆景が、瀬戸内の水軍を統率するために水、陸、交通の要地である備後の国三原の湾内に浮かぶ小島をつないで海城を築きました。 やっさ踊りは、この築城完成を祝って老若男女を問わず、三味線、太鼓、笛などを打ちならし、祝酒に酔って思い思いの歌を口ずさみながら踊り出たのがはじまりと言われ、それ以来、大衆のなかに祝ごとはやっさ"に始まり"やっさ"に終わる習わしになったと伝えられています。
また、その歌詞は、時代とともに移り変わり近郷の地唄、はやり唄なども大きく影響し、歌も身なりも変化し、踊り方も型にとらわれることなく、賑やかにはやしをとり入れて踊るようになり、はやしことばが「やっさ、やっさ」と声をかけられるところから、いつしかこの踊りを"やっさ踊り"と呼ぶようになりました。全盛を極めた明治のはじめ頃は、子供が踊りの先頭で白シャツに白鉢巻姿で、日の丸扇子を両手にもって踊り、その後に各組の踊り子が続いたものです。また、当時の娘たちはみな三味線がひけたもので、毎年うら盆の3日間は町中を踊りまわり夜が明けるまで賑わっていました。近年やっさ踊りは、新聞、テレビ、ラジオ、CDやDVDで紹介されたり、昭和45年(1970年)の日本万国博覧会、米国建国二百年祭などに出演、また周辺市町村にもやっさ踊りが広まり、広島県の代表的民謡踊りになりつつあります。
三原のやっさ踊りを中心にしたお祭り行事は、花火大会を商工会議所、やっさ踊りを観光協会、夏祭り子どもやっさを商栄会と三団体がそれぞれに開催していました。昭和51年(1976年)このそれぞれ開催された行事の主催団体を一本化し、より盛大にしようと開催されたのが「やっさ祭り」です。設立趣旨は、「三原やっさ祭りを市民総参加で心の触れ合いの場づくりの行事とし、若者が運営の中心となり、市の一大観光資源として定着させたい…。」というもので、現在でもその文化は年々と受け継がれています。運営については、運営母体が、各団体で構成する「三原やっさ祭り振興協議会」、運営主体は、若者で構成する「やっさ祭り実行委員会」となっています。やっさ祭りは、毎年8月の第2日曜日を含む金・土・日の3日間で開催され、中国地方を代表する夏祭りとして30数万人の人出で賑わいます。2日間のやっさ踊りでは、約4,000人の踊り手が、17時頃から三原駅前周辺の踊りコースを「やっさ、やっさ」と練り歩きます。また、花火大会は、20時頃から約1時間、沼田川河口から打上が行われます。
(参考)やっさ踊りを踊るお祭りは全国にあります。湯河原やっさ、池袋やっさ、竹原やっさ等